六人の和宮の謎を追って

増上寺の徳川家墓所に眠る和宮は本物?

幕末『公武合体』により、天皇家より幕府将軍に嫁いだ悲劇の皇女の話

 

この話の発端は、今から60年近く前に遡ります。

和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は、現在の東京プリンスホテルの場所にあったのですが、

1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬されました。

その際に、東京大学理学部長の小谷正雄氏を代表とする総合調査が行われたのです。
1958年~1960年(昭和33年~35年)

こうした時期、和宮の侍女をしていた祖母から聞いた話だと匿名である女性から、朝日新聞と調査団に奇怪な投書が舞い込ん出来たのです。

 

◎調査の結果をまとめた著書

『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』1967年12月25日東京大学出版会刊行
この調査に関わった研究者たちがまとめた報告書文集。鈴木尚、矢島恭介、山辺智行の共著

『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会 1985年(昭和60年)
鈴木尚(ひさし)著  1912~2004年(明治45年~平成16年)

 

◎これ等の著書の中で、

※和宮の遺体には、刀の跡その他の病変部は認められなかった。

※不思議にも左手から先の手骨は遂に発見されなかった。

※遺体の切り揃えられた黒髪に対して、和宮の夫の家茂に収められていた 頭髪は(茶色)他人である。

※華奢な遺骨。

※身長は143.4cmと非常に小柄。

※両腕の間に今まで抱きしめていた様な形で、小さなガラス板が落ちていた。
 そこには、長袴の直垂に立鳥帽子姿のうら若い男子が写っていたが、不手際で消してしまって
   誰だったかは判らない。

※その他の副葬品はなかった。

 

さらに、著書の本文中に

静寛院宮の臨終について朝日新聞社、および調査担当官に投書 が来るの、
一行が記録されている。

『達筆で認められたこの手紙は、教養と自信であふれていた』 鈴木氏。

 

※本文中に記載されると云うことは、調査団の皆が、信頼出来ると判断したからに他なりませんね。

 

 

◆徳川家墓所、増上寺に眠る一人目の和宮

それでは、上記の『謎の匿名の投書』の女性の証言から

 

『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』 あとがき より

※この文中にもある様に、
新聞の発表も、上記にある『本』の出版もされる前に、届いた手紙である事に留意してどうぞ読んで下さい。

 

第一信 昭和34年2月5日付 調査団宛
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前略

突然此の様な事を申し上げ失礼ですが、此度の和宮様御墓発掘の事を知り、さもありなんと心にうなずくものがありましたので、一寸、申上げてみたくなりました。

実は私の祖母は御祐筆として和宮におつかへし、其の最後を見とどけた者でございます。明治維新後(祖母の年を逆算しますと、明治4年か5年と思はれます。

宮の御逝去は10年との事ですが、一切は岩倉具視が取しきった 事とて、其の時まで伏せておいたのかと思はれます。岩倉卿と祖母が主になって、小数の供廻りを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあひ(多分、浪人共)

宮を木陰か洞穴の 様な所に(勿論お駕篭)おかくまひ致し、祖母も薙刀を持って戦ひはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追い拂って岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で、最早之までと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた。

後、やむなく御遺骸を守って東京に帰り、一切は岩倉卿が事を運び、祖母は自分の道具、おかたみの品を船二隻で郷里に帰った由(大方は其後、倉の火事で焼失との事)、其後、和宮の御墓所を拝した時、御墓所の玉石をいただき、後年まで大切にしていたそうです。

以上の事は母が幼時に聞き覚えていたと、私に語ったものですが、以上の様な訳で、お手 許品も何も入れず、密かに葬って後、発表したものと思われます。

戦後、小説に芝居に、和宮の御最後を有栖川宮との思出をのみ胸に、亡くなられた様な場面をみせてゐるのを心外に思ってゐたものです。

然し祖母の遺品、書物の少し許り残って居りました物は20年春、疎開の時、最早、日本の終わりと考へて皆、他の書類などと共に焼棄てた為、聞き知ったご最後を申し出す証拠もなく、残念に思って居りました。

徳川家の記録には此の後、最後の事が正しく載って居りますでせうか。皇室も徳川家も現在では何も伏せる事はないと思ひますから、家の為、崇高な御一生を過された和宮様を正しく維新史を飾る一頁に伝へたら如何でせう。

御発掘の有様を見て心から迸るものがありましたので乱筆を走らせました。私やがて58老女、他出も余りせず居りました為、何かと出ずらはしさを避け、匿名で申上げます事をお許し下さい。

 

第二信 2月27日付 著者鈴木尚氏宛
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冠省2月5日付の書、御覧いただけましたでせうか。

其後、御研究が進んで居られる事と存じますが、和宮様に刃の痕跡など有ったか等、考へて思ひを維新の昔に馳せて居ります。私は単なる興味本位でなく、歴史の真実を幾分でも再現したならと愚考して居る者でございます。

寡聞にして、先生の御発表がどういう研究誌に何時頃なされるものか存じませんが、何とかして一読したいものと思って居ります。

もとより浅学菲才、学術的な事は分り兼ねますが。今のところ見聞はKRTと朝日新聞だけを毎日定めて居りまして、他の方面は有りましても一向に見ず読ますの状態で居ります為、先生の尊い御研究、御発表も拝見いたせるか心細い思ひでございます。

徳川墓地調査の記事を新聞紙上に御発表の折、和宮に関しての正式発表は何時頃どんな誌上でなされるかを御暗示いただければ幸と存じます。

お忙しい折、取るに足らぬ者の言など御耳を傾けられる暇はないとの御叱りを受ける事は陶然と思いますが、厚かましくも筆を取りました次第でございます。気候不順の折、御自愛専一に御研究の程祈り上げます。

 

手紙の内容は以上です。

 

公式には 明治10年9月2日

脚気衝心のため療養先の箱根塔ノ沢で薨去したことになっております。(32歳)
この匿名の投書に当てはまる記述は、時期は違いますが、場所は同じ箱根です。

明治2年(1869年)1月18日、和宮一向は東海道を京都へと向かった。
箱根は云わずと知れたその途中です。

京都に着いていた和宮に対して、京都留め置きが徳川家に発布された。
翌年の孝明天皇二十五回忌まで京都にいなさいと云う事なのですが、

さらに、今度は京都に住みなさいと正式に決定が下った。

和宮の京都での住まいは、天台宗の聖護院。5年間在住していた事になっています。

最終的に東京に戻ったのは1874年(明治7年)

その間の夫の家茂の七回忌の法要 1872年(明治5年)夏も、記録では自分は欠席して代理人を送ったことになっています。

 

 

◆八木家に眠る二人目の和宮

和宮墓  

京都の『八木清之助翁』の御子孫のお宅に、

『和宮』のお墓がある。

「なにか和宮の遺品でも納めてあるのですか」

「いや、祖父は分骨だと、これを子孫代々供養せいと」

※右の写真はyoutubeより


 

 

◆療養先で亡くなった三人目の和宮

明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の箱根塔ノ沢で薨去(32歳)政府の公式記録。

本来であれば、徳川墓所に眠っている『和宮』の筈なのですが、もうすでに書きました様に、墓所の発掘最中に届いた手紙に、『明治維新前後・・・』と証言があり、実際の記録と照らし合わせると、明治2年。箱根の山中で賊に襲われて、自害している『和宮』がいます。

これだけで偽物と分かってしまうのですが、政府の公式記録にあるのですから、その意図も含めて、経緯を記します。

 

◇和宮の通夜・密葬

箱根阿育天山阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬を勤めたが、東京からは知らせがなかった。(知らせたけど返事が来なかったのでしょう。)寺の住職の判断で、通夜、密葬したと言います。

明治天皇にとっては、叔母にあたる人なのですから、駆けつけても当然なのですが・・・

顔を知っている親族も殆ど、亡くなっており、顔を知っていた島田左近は惨殺され、残るは有栖川熾仁親王だけでしたが、熾仁親王は、明治10年2月19日、政府に反旗を翻した西郷隆盛軍との戦いで官軍の逆徒征伐総督に

なり、9月1日(和宮崩御の公式記録は9月2日)頃には、官軍が形勢を逆転し、城山周辺の西郷軍前方部隊を駆逐したとのことですが、そのような時期に、和宮の密葬に参加できるはずもありません。

東京では「和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていた」という。。

 

◇和宮の本葬儀

当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。墓所は東京都港区の増上寺。

※通夜・密葬を行なった阿弥陀寺にも和宮の位牌が安置されています。

法名(戒名)「静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉」
素人でも判る、男だか、女だかも判らない。わけの判らない戒名。

宮内省 →「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」
これなら、判りますけれど。

wiki>より転載

明治7年(1874年)7月に東京に戻る。麻布市兵衛町(現・港区六本木1丁目)にある元八戸藩主・南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・徳川家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになった。

しかしこの頃より脚気を患い、明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言がある。

 

1960年代、当時98歳の平塚きわという老婆が幼い頃、村の子供たちを招待して菓子を振舞われた宮の思い出を、和宮が宿泊した箱根塔ノ沢「環翠楼」(和宮湯治時は「中田暢平旅館」)の中野敬次郎に語っている。

平塚きわの語り残した宮の姿は、大勢の侍女に囲まれ、白い着物を着て紫の帯を締め、 おすべらかしを結っていた姿であった。また脚気のためか顔がひどく浮腫んでいたという。(参考文献『和宮』遠藤幸威 成美堂出版)

程なく明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。32歳という若さであった。  転載終了

 

検証

ここで、『おすべらかしを結っていた姿だった』と、ありますね。

和宮は夫の家茂が亡くなった際、髪は降ろして、薙髪(=剃髪)したのです。とは言っても髪は肩くらいに切り揃いえていたのです。墓所で発掘された『和宮』もその姿でした。

 

 

◆四人目の和宮は、このおすべらかしを結っていた和宮とします

南部郁子

老女が”顔がひどく浮腫んでいた”と、云うのは、98歳の彼女の幼い頃ですから、脚気と云う病名もあり、歳月を経るうちにそう思い込んでしまったのでしょう。

その年の8月以降に、地元住民との交流も行われたという証言、子供たちにもお菓子を配ったりした。そして、9月に亡くなった。これは、『和宮』の替え玉が、周囲にその存在を印象づける為に、動いたのですね。誰の差し金でしょうか。

通夜・密葬を行なった阿弥陀寺の住職が、和宮に塔ノ沢の療養を勧めた
のは伊藤博文*1
だと語っています。この辺りが怪しいですね。

伊藤博文は岩倉具視を通してすでに和宮がこの世に居ないのを知っている筈ですから、明らかに謀略。

時期も西南戦争の最中、和宮の顔を知り、身内でもある有栖川熾仁親王は、官軍を率いているのですから駆けつけられる筈ずもない。

 

そこを狙ったのでしょう。

 ※1  加治將一著 『幕末戦慄の絆』

※右上の写真は南部郁子(もりおか歴史文化館蔵)六人目の和宮と同じ人物。この郁子が湯治に行ったりして、
東京での和宮を演じていたのではないでしょうか?

 

 

◆五人目、この阿弥陀寺に保存されている写真の和宮は柳原明子です。

柳原明子

柳原明子

明治35年(1902年)に亡くなっています。

昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩藩主の正室。

柳澤明子の肖像として掲載されているのを古写真研究家が確認。

柳澤家は将軍の寵臣の係累でありながら没落しなかったという。

何かあったと思いませんか、和宮と同い年です。

明治2年からの京都での『替え玉』かも知れませんね。

この写真は近年、和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折、小坂家の写真師が撮影した和宮の写真が発見された。複写したものを小坂家末裔の小坂憲次氏より、阿弥陀寺に寄進された。(信州小坂家、小布施町は、中山道でない)<wiki

ややっこしい・・・ですね。

天璋院の亡くなった時には、沿道に1万人もの人々が詰めかけたと言うのに、 交流のあったと云われる人々もそうですが、明治天皇も自分の伯母なのですから、葬儀に出席しないなんてある筈もないし、当時のニュースに取り上げられていたのでしょうけど、そんな話は聞かない。

身代わりの誰かが亡くなって、箱根阿育天山阿弥陀寺で、通夜・密葬が執り行なわれた。
南部郁子ではない誰か。

 

 

◆六人目、この和宮は、南部郁子です。

南部郁子

『洋装の和宮』とされるこの写真→ 

実は  盛岡藩主の娘 南部郁子です。(1853~1908)

 もう一度、同じwikiの転載をします。

明治7年(1874年)7月に東京に戻る。

麻布市兵衛町(現・港区六本木1丁目)にある元八戸藩主・南部信順の屋敷
に居住し、皇族や天璋院・徳川家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交
流を持つようになった。     転載終了

郁子の妹が麻子と云って、この家の持ち主、南部栄信の妻なのです。

姉の郁子が和宮の代わりに住んでいたのではないでしょうか?。。。

※南部栄信は(元八戸藩主)南部信順の長男、信順は( 薩摩藩八代藩主)
島津重豪の14男。

郁子は華頂宮博経親王と結婚し、皇族となった。しかし、妹と同様に夫は早死。結婚後3年で死去している。

この彼女が皇族の格好で和宮の身代わりとして湯治場に現れたとしても不思議ではない。和宮の生きていると云う証拠を周囲に印象づけるために、あえて子供たちを招待したのではないでしょうか。

彼女が東京での和宮役を演じていたと考える方がすっきりしますね。秘密を知る人間は少ない方がいいですから。これも私の推測です。。。

華頂宮博経親王
知恩院に入寺し、明治維新で僧侶を辞めた。その時、知恩院の山号「華頂山」をもらって華頂宮家を創設。郁子と結婚。結婚年は不明。留学してから亡くなるのも、郁子の妹の夫と同じ。26歳で死亡。郁子との間に生まれた男の子は7歳のとき、明治天皇の猶子となって宣下するも、即日死亡。郁子は南部家には戻らず、伏見宮家から養子を迎えて華頂宮を守った。

 

 

これで、六人の和宮が出揃いましたが、

問題なのは徳川の菩提寺に眠っている一人目と、 八木家のお墓に眠っている二人目、そして三人目の箱根塔ノ沢で倒れた和宮ですね。

 

 

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