明治大帝

「明治天皇替え玉説」の謎を解く・・・写真を基に徹底解明!

明治維新とは一体何だったのだろうか?

明治天皇 大室虎之祐 「明治天皇の公式な写真」

 

「フルベッキ写真」の
中央に座っている
大室虎之祐
と云われている少年。
明治天皇-1jpg

同じ時に撮られた写真。元々は光沢のある服だったんですね。顔の向きが少し違うのもありました。

明治天皇 明治天皇 明治天皇 明治天皇-1jpg

いよいよ箕作奎吾(イギリスの留学先で15歳の時)の登場です!合成してみました。

箕作奎吾 箕作奎吾 明治天皇と大室虎之祐⇒
似てはいますが
明らかに別人です!
意図的な修正でしょうか。
大室虎之祐

どうしたことでしょう!何とピッタリと一致!
どうしてと聞かれても答えられません。虎之祐に何かあったか、それとも奎吾の方が支配者にとって都合が良かったのか、
これはもう想像の域を出ませんが、事実は事実なのです!!

 

『箕作』=サンカ
wiki>サンカとは日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人々を指す言葉である。
・・・(ここに『箕作』が出てます。)

 

◆即位当初の少年京都明治天皇(1868年1月15日以前の様です)

明治天皇本物 明治天皇本物

暗殺説など囁かれているのですが、優しそうなお顔ですね。上記とは明らかに別人。

 

※違いを比べて下さい。 古式ゆかしき礼に則って行なわれているかに見えた「神道式」儀礼にしても、明治に入ってから慌てて創生された「新式」なのです。

 

◆東京明治天皇即位の礼

明治6年の皇城(皇居)炎上で資料が失われて、この絵は後世の作<国立公文書館

即位の礼

 

明治天皇即位の礼は、

現在の京都御所・紫宸殿(ししんでん)にて

慶応4年8月27日に行われた。

岩倉具視は、唐の模倣ではない庶政一新の時に
ふさわしい皇位継承の典儀を策定するように

命じました。

その結果、儀式に地球儀が用いられるなど・・・
<国立公文書館

 

「一世一元制」も、無論明治から始まり、それ以前に改元権が朝廷にあったとしても、江戸幕府の大学頭林家が実質的な改元を携わっていたこと、あるいは、皇祖神を祭って来たと云われる伊勢神宮にしても、

江戸時代までは豊受大神を祭る外宮の方が信仰の中心であり、お伊勢参りにしても、朝廷とはまったく無関係な物見遊山的、通過儀礼的行事であった事等々。。

無論、天皇制自体の歴史が、古代天皇王権の成立に始まる事は云うまでもない事ですが、それをもって天皇制の一貫性を説いたとしても、私には今の「イスラエル国」と、ダブって見えてしまうのは何故でしょうか。

中世や近世にかけての天皇の権力や権威がとるに足らない「共王」としてのそれであり、何故廃絶されなかったのかという問題こそ、私たちは考えなくてはいけないと思います。

 

◆明治天皇=箕作奎吾の更なる証拠

『フルベッキ写真』でも有名なフルベッキは、明治新政府の教育顧問でした。
(この事は焚書になった、菊池寛著『大衆明治史』にあります。)

今まで明治新政府にはお雇い外人が大勢いたのは知ってはいたのですが、フルベッキに関してその事は、何処にも記載がなかったし、今まで見落としていたのです。

私は、どんないきさつで『大室寅之祐』から『箕作奎吾』に変えられたかが、 幾ら調べても、政府内に『後ろ盾』になるべき人も見つからないし、 理解出来ず、ずっと頭から離れなかったのですが、

『フルベッキが明治政府の教育顧問』だと判って『ハッと!?』気が付いたのです。

この『フルベッキ』が、画策した犯人なのではないかと。政府の中でも発言権は強かった様です。
薩長の郷士たちが選んだ『大室寅之祐』よりも、『箕作奎吾』の方が、イギリスにとっては都合が良かったのかも知れません。それにイギリス留学の経験がある事は、大義名分も立ちます。

 

『フルベッキ』が、亡くなったのは、1898年(明治31年です。

伊藤博文が、明治天皇に十項目の意見書を捧呈した。『明治天皇紀』(明治31年)

内容は
「お前は天皇になったからとて、宮中に入ってくる金は、俺(伊藤)と山縣有朋と井上馨の 三人の許可なく使うことはならぬ」と・・・明治天皇はこれを了承しました。

田中光顕にも、この三人の元老からこの事を言い渡されました。(明治32年)
(鬼塚英昭氏の著書『日本の本当の黒幕』には、大室寅之祐の悲劇とありました。)

私もつい先日までは、同様に考えていました。それがネットである方からの情報で知ったのです。
自分でも検証を試みて見たのです。

これは、明治天皇が『大室寅之祐』だったからの悲劇ではなく、
『箕作奎吾』の『後ろ盾のフルベッキ』が、居なくなったからではなかろうか。

 

◆『明治維新』とは、一体何だったんでしょうか?

明治天皇-1jpg

 

ここに書かれている事は事実なのでしょうか?

右は中村正直著の『敬宇文集』と言う本の中の一節です。

中村正直氏は、奎吾と一緒にイギリス留学に行った仲間です。
その奎吾の死を偲んで、書いた詩なのです。...??..ですね。

記録では、奎吾は、明治4年大川にて溺死。と言う事になっています。

それに、イギリス留学に一緒に行った他の仲間は、
早死や行方知れずも妙に多いです。

※これ等は、ネットで調べれば直ぐに判りますので、ご自分でご確認してみて下さい。

 

 

「フルベッキ写真」の少年が大室虎之祐だと云う証拠は今の所ありませんし、

「箕作奎吾」が、この大室虎之祐と再び入れ替わったと云う事も、上記の証拠だけでは断定までには至りませんが、
極めて黒だと思います。

問題は「入れ替わった」と云う事実が重要だと思います。

 

◎追記
最近、『高橋是清自伝』を読みました。(2016/01/28)
・・・明治3年頃だったと思う、大学南校(後の開成高校)に勤務していた時、同校の教師のダラースとリングが浪人に後ろから切られた事件があった。現場の傍の茶屋に彼等を寝かせて介護し、そこに南校の小博士の箕作奎吾が来て看護長となって指図した。*1と、ありました。

やはり、途中で「大室虎之祐」*2と入れ替わったのです。
明治6年の皇城炎上辺りが怪しい、ここで都合の悪い資料を処分したのではないだろうか。
あれだけ立派な『即位の礼』を催して、写真を一枚も撮らなかったと云うのも変だし、一枚も残っていないのも変です。上の写真は燃えてしまったから撮り直したと、云う事なんでしょうね。

理由は

『フルベッキ写真の中央の少年』ではまずいので、入れ替えた。
この少年が、大正天皇の様に(傀儡になる事を拒んだ)明治政府の意向に従わなかった。

・・・・こういう事が考えられるのではないでしょうか。

 

 ※1  岡山大学、Earth Science Reports Vol. 16, No. 1, 1-7, (2009)
「日本最初の用語「地質学」の成立: 箕作阮甫(1799-1863)の貢献」に箕作阮甫の事が書かれておりまして、奎吾についても明治新政府の大学校に勤めたとあります。

 ※2  私は御子孫の話(大室虎之祐明治天皇説)を信じますので「大室虎之祐」としましたが、「誰だか分らない少年」とする説もあります。

 

 

大室虎之祐明治天皇説とは ⇒こちらへ

大正天皇⇒こちらへ

 

◇その他にも、歴史の闇を紐解いた◇

☆上野の西郷さんの銅像の落成式の時、
西郷さんの奥様が「うちの人はこげな人ではない。」と、叫んだ有名な話⇒ こちらへ

☆「悲劇の皇女和宮」その夫、家茂のお墓に納められていた「和宮」の頭髪と、
和宮本人のお墓の遺体の頭髪が別人だった。しかも片手の手首から下の骨が無かったのは何故か⇒こちらへ

 

◇参考読み物◇

明治維新、現代の事を知るにはこの人物の存在を除く事は出来ません。
何冊かの本を参考にして短く短編にました。岩崎弥太郎伝⇒こちらへ

 

明治維新を知ろうとすると、謎解き作業になります・・・・

 

 

江戸幕府末期⇒こちらへ

 

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◇忘れてはならない記録◇

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