大正天皇

本来は天真爛漫の性格だった

 

 

◇遠眼鏡事件◇

この話が一般に知れたのは、昭和30年代、きっかけは週刊誌の様です。

詔勅を朗読したあと、丸めて望遠鏡の様にして議会席の方を覗いたと云うのですが、これは単に中を確かめたらしいのです。そのまま三宝の上に置けば良かったのに、庶民にも気さくに話し掛けたりする人でしたから、威厳を保とうなんて思いもないので、自然に出た仕草だったのです。

当時の新聞の報道を見る限り、天皇は無難に開院式をこなしている。また、「事件」の客観的な資料も残っておらず、あったのかさえも解らない。

そもそも、そんな事が、世間の耳まで届く事事態がおかしいのではないでしょうか。

 

◇1900年(明治33年)嘉仁(20歳)の時、 九条節子(満15歳)と結婚◇

節子妃はそれまでの女官に代わって、皇太子の身の回りの世話をほとんど一人でこなした。それが皇太子にとって良い影響を与えた様で、今までの病弱な皇太子ではなくなっていた。

韓国

大正天皇(皇太子時代も含めて)は、沖縄を除き、全国各地を精力的に訪問しています。

当時日本の保護地(植民地になったのは1910年)だった朝鮮にも行っています。(右の写真、右隣の子供は李垠・韓国皇太子)
   (1907年   満28歳)

原 敬の日記を見ても、遠眼鏡事件のイメージとは全く異なる、まして明治天皇では想像も出来ない、自ら煙草をすすめられ、

椅子に掛け煙草を吹かしながらくつろいで対談が出来る。気さくな人間味溢れる天皇(皇太子時代も同じ)だったのです。

台湾にも行く予定で計画が進められている最中、明治天皇が倒れ結局中止になりました。

裕仁と

全国を巡る皇太子は、

誰にでも気さくに声を掛ける庶民的な人でした。旅の途中(皇太子の場合は巡啓と云う)では、三人の子供たちにお土産を買う姿も見られたと云います。

地方巡啓から帰れば家族との団欒が待っていて、時には侍従や女官が数名、別の食卓で陪食する事もあった。

皇太子(大正天皇)が好きな葡萄酒を飲んでグラスが空にすると、三人の皇子は代わる代わる席を立ってお酌をした。

酔いが回ると皇太子は皇子たちに、嬉しそうに侍従や女官にもお酌をしてあげよと命じたり、

食事が終わると節子妃が得意のピアノを演奏、それに合わせて軍歌や唱歌を歌い、時には侍従たちも交えて全員で合唱する事もあった。

この団欒の話は、『思い出の秩父宮雍仁親王文集』などにもあるそうです。又、皇子たちと一緒に相撲や鬼ごっこをしたり、夜寝る様子なども見に行ったりと、本当に子煩悩な父親だったのです。

 

当時の政府は大正天皇の様な権威を失った「弱い」天皇ではなく、明治天皇の様にカリスマ的権威をもって国民全体を統合する「強い」天皇でなければならなかったのですが、

天皇になっても明治期に確立された習慣に素直に従わず、なるべく諸事簡単にと望み、誰にでも気さくに声を掛ける庶民的な天皇であり続けたのです。

1913年、生活の無理がたたったのか、1月に風をこじらせ、5月には肺炎になった。熱も出て皇族、政府の重鎮など次々と参内、静養する青山御所付近では、市内電車が徐行運転。しかし幸いにも病気は全快し6月には公務に復帰している。

しかし、1914年頃から、次第に天皇の歩行がふらつくようになった。

 

◇ガーター勲章を貰ったのが1912年ですので、満33歳頃◇

騎士団の正装

下の写真(中)は、上記の写真、迪宮(後の昭和天皇)の年齢から推測して28歳位。

    同一人物なのでしょうか?

大正天皇

 

同年代と比べたいのですが、適当なのがないので若い頃の写真ですが

合成

 

歳がいって、目が垂れてくる人はいるかも知れませんけど。

唇が本物の方が、厚い。上の写真ではもっとはっきり分りますね。

偽物の顔の方が、全体にノッペリしている。

鼻も微妙に違う。

ガーター騎士団の服装をして立っている写真は、片足を前に出している。
こんな気取った立ち方をしている写真は他に一枚もない。

大正天皇は初めに掲げた写真の様に両足を揃えた姿が殆どです。

 

この辺りから、偽物に変わった、又、写真を差し替えていったのだと考えます。*1

 

 

◇うつろな表情を見せる天皇の写真が三段抜きで新聞に掲載された◇

大演習統監

天皇が具合が悪くなった、その原因は子供の頃(二ヶ月後には回復している)の後遺症がなんと四十年後に表れたと診断して、公に公表していたのです。

遠回しに『お能に問題がある』と。

1919年、東京朝日新聞5月10日

新聞には、天皇が幌のない馬車に乗り、うつろな表情を見せる写真が三段抜きで掲載された。

『不敬罪』と、云うものもあったのに、こうした新聞社の姿勢に対して政府は黙認。

言葉通りに、政府は黙って認めていたのです。

皇太子としてすでに活躍していた、後の昭和天皇がヨーロッパへの外遊に際しメディアは同行し密着取材。

世間の目を大正天皇から皇太子の方に向けさせていったのです。

 

皇太子裕仁は、帰国後、摂政(1921年・大正10年)に任じられ、大正天皇は実権を失いました。

※西園寺公望は後年、自分が仕えた1865年から1940年までの間の四人の天皇の内で、大正天皇がもっとも知性優れていた、と語っている。      ⇒バーガミニ著『天皇の陰謀』より

※主に原 武史著『大正天皇』を参考にしています。

※この記事は、後日、加筆するかも知れません。

 

 

※1  新聞はウソを平気で付きます。ただの政府や企業にへつらう一企業である事を、我々は認識しなければならないと思います。

 

 

 

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